True Colors

 

Today's author くるぶし

 

小学校の低学年の時

美術の時間にクラス全員で地元の畜産農家のもとを訪ねて行って

牛の絵をかくという課題があった。

 

牛を間近で見るのも初めてだったし、自分よりも大きな牛を目の前にして

ワクワクしながら画用紙にめいいっぱいの大きな牛を鉛筆で下書きして教室に持って帰った。

 

教室ではいよいよ下書きをした画用紙に絵の具で色を入れていく。

もう目の前に牛は実際にいないけれど、初めての大きな牛にワクワクしながら描いた

あの時の印象を思い出して色を入れていく。

迷いなく、大胆に、筆が動くままに。

 

出来上がった絵を担任に教師に持って行った。

何といって褒めてもらえるだろう。

そんな風に期待しながら、その絵を見せた時の担任の教師の反応は予想外のものだった。

 

「どうして、こんな風に塗ってしまったの!」

そう言って彼女はその絵をもったまま教室を出ていってしまった。

 

私は訳がわからないまま、彼女を追いかけて廊下に出た。

 

すると彼女は廊下にある、蛇口がいくつも並んだ手洗い場にいた。

駆け寄ってみると、私の描かれた絵が水で流されていた。

さっき塗ったばかりの、画用紙に置かれた黒や白の絵の具が水に混ざって流れ落ちていく。


あまりの驚きで一瞬何が起こっているかわからなかったけれど、

私の見たあの大きな牛が歪んで姿を消していくのを見ながら、自分の目に涙が浮かんでいるのがわかる。

悲しくて、悔しくて、でも何も言えなくて。

 

「こんな風に絵の具で塗りつぶしてしまうのは”良くない”のよ」

そう言って、彼女は洗った絵を乾かして明日以降にもう一度絵の具で塗り直すと私に伝えた。

 

彼女のいう通り、画用紙は翌日にはきちんと乾いていて、

鉛筆で描かれた牛の下書きだけは洗い落とされた絵の具の中から浮かび上がってみえている。

今度は担任の彼女が見本を見せてくれた。

絵の具一色で真っ黒に塗りつぶしてしまうのではなく、濃淡をいかして筆の跡を残しながら色を置いていく。

そのやり方をすぐ自分のものにしてしまった私は、

その絵を仕上げるころには、洗い流された真っ黒な牛の(絵)のことなどすっかり忘れてしまっていた。

 

そしてその絵は、県内の小学生の展覧会で一番評価の高い「特選」という賞をもらった。

 

その結果を知った時の私の感想は、うれしさよりも拍子抜けという感じだった。

「ああ、そうなのか。ああいう絵を描けばいいんだ」

それまで、自分では「最高の出来」だと自信満々で提出した絵では入選すらしたことがなかったのだ。

なんでだろう。なんであれじゃダメなんだろう。私は不思議でしょうがなかった。

 

そしてその理由が遂にわかった。

いや、「ダメ」な理由はわからないけれど、「ああいう風に描けば賞をもらえるのだ」ということが

小学生ながらにわかった気がした。

 

「どうして、こんな風に塗ってしまったの」

「こんな風に塗ってしまうのは良くないのよ」

担任の彼女の言っていた言葉が頭をよぎった。

 

それから小学校の高学年まで、

その(「濃淡をいかして筆の跡を残しながら色を置いていく」)やり方で、面白いように賞をもらった。

表彰状をみんなの前で貰うときは嬉しかったし、それを家に持ち帰って親に見せるのも嬉しかった。

 

でも、そんな「濃淡をいかして筆の跡を残しながら色を置いていく」やり方で通用するのは小学校までで

中学校ではまた賞をもらうことはなくなり、美術の成績も中の中くらいだった。

 

 

あれからことあるごとに(大抵の何かうまくいかない時に)あの廊下での絵の出来事を思い出した。

 

私が本当にやりたいことが見つからないのは、

私が自分らしく生きられないのは、あの出来事のせいだ。

 

あの時、私は自分の心に浮かんだ絵をそのままに描いたのに、

それを彼女が洗い流してしまったから。

自分の描きたい絵ではなく、「どうしたら評価されるか」を考えて描くようになったから。

 

だから、だから私は「本当に自分がどうしたいのか」がわからなくなってしまったのだ。

周囲の期待ばかりを考えるようになって行動するようになってしまったのだ。

本当は、どんな風に、どんな色で自分が見た世界を表現したいのか

すっかりわからなくなってしまったのだ。

あの出来事のせいで。

 

ずっと、ずっとそう思っていた。(笑)

(なぜ(笑)なのか、お兄ちゃんならわかるかな?)


実は、昨日兄と電話で今までの出来事がどんな風に自分の人生に影響しているのかを話したんです。

一見、自分の歩みを足止めされたような出来事も全部、人生の伴奏曲のメロディーの一つ。

それがあったからこそ、浮かび上がる(いきてくる)主旋律があるんじゃないか。

 

ずっと。ず〜っと、あの出来事以来私は

「本当は自分は描きたい絵があった」

そう思っていた。

そう思ってこれたからこそ、いつか「描きたい」という思いを維持することができた。

いつかあの時に失った色で思いのままに描いてみたい、

その美しい世界を見てみたいと思えた。

 

 

 

もし、あの時にあの真っ黒に塗りつぶされた絵がそのまま受け入れられていたら、

敢えて「描いてみたい」と熱望することも、いつかその世界を見てみたいとも思わなかっただろう。

 

自分にとっての「True Colors 」が自分の中で、

その記憶の中でずっとその美しさを保ち続けてこられたのは、

あの失われた色があったからこそ。

失われた色があって、そこから浮かび上がらってくる色がある。

 

全部が、世界そのもののためにある。

 

昨日の兄との電話のあと、あの絵の出来事を思い出しました。

 

いま、その保ち続けていた美しい色を取り出して、

子供のときには持ち得なかったこれまでの人生で習得したやり方で

私も兄も自分の絵を描こうとしていいます。

大胆な色使いだからこそ、そこには繊細な技術や心配りが必要なんだと

大人になった今ならわかるのです。

 

あの時に失ったと思ったものは、「True Colors 」は、

それがいつか準備が整って出番がくるのを、そこで待ってくれていたような気がします。

 

 

 

 

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